日産アートアワード2015日産アートアワード2015に行ってきました。

現代アートですね。場所は、横浜のBankART Studio NYKです。過去の横浜トリエンナーレの会場にもなっていたところです。

第一次選考によって選ばれたファイナリスト7名、秋山さやか、久門剛史、石田尚志、岩崎貴宏、ミヤギフトシ、毛利悠子、米田知子(敬称略)による作品が展示されていました。

とてもよかったです。
それぞれの想いが感じられて、とても贅沢な時間でした。グランプリを受賞したのは、毛利悠子氏の《モレモレ:与えられた落水 #1-3》だったそうですが、私もこの作品は大好きです。脈動するポンプによって水が循環し、ちょっとピタゴラスイッチ装置的なところが、また、好みです。
オーディエンス賞の久門 剛史氏の作品《らせんの練習》も、音と光で構築された夢のような異空間に、シビれました。

現代アートというのは、何でもありの世界だから、つまらないものがいくらでも混じってしまうのですよね。

例えば、私が好きでない現代アートの作風は、単なるゴミっぽい作品だったり、裸でゆっくり動いているだけの動画作品、あまりに偏執的な繰り返し作業だけが際立つ作品です。

選び抜かれただけあって、完成度の高い美術展でした。

深い記憶の底にあったような懐かしさ。引き出される幽かな(かすかな)感情。
どこかにあり得るようで、あり得ない夢を見ているような眩暈。
日常の淵、世界の果てを見せるような、常識を覆す驚き。

現代アートは、その異質さによって、この世を、温かく平和な世界だと改めて認識させてくれるのです(あるいは、その正当さによって、この世を、残酷で争いに満ちた世界だと改めて認識させてくれるのです)。そして、同時に、我が身の存在の不思議さを突きつけられるのです。記憶と感情によって成り立つこの自我を。

上質な現代アートは、記憶と感情を揺さぶり、この生と夢を対比させ、常識と非常識の境、つまり世界の果てを意識させてくれるのです。

常識で理解できないものと邂逅し、「なんだ、これ!?」「何の意味があるの!?」という自分を認識する。自分と世界の境界、つまり自分自身を意識させてくれます。

旅行だって、そうじゃないですか。
世界を、自分を知るために、外に出かけ、驚きと出会いを果たし、帰ってくる。

現代アートも、方向が逆なだけで、きっと同じです。
それをもっと、純粋で微妙な形で果たしてくれるのです。


[どうでもいい補足]
2011年の横浜トリエンナーレ、横浜美術館の入り口付近にあった作品で、世界中の人の普段着ている衣服を上着から下着まで帯状に切って、フィルムの缶のようなものにバームクーヘン状に詰めた作品があったでしょう。外周側がコートなどで、内周側が肌着です。100人以上の衣装の輪切りがあって、それぞれに中国語で衣服の説明(おそらく、コート、上着、シャツ、肌着などと書いてある)があったのですが、そのとき、私はそれぞれの漢字を見比べていて発見しました。何人か、穿いていないことを。「安心できません。穿いていません。」(←バカ)