次回の『掟上今日子の備忘録』を録画しようと番組表をチェックしていたら、私が前回のブログで触れた番組『モーガン・フリーマン 時空を超えて「第2回 死後の世界はあるのか?」が再放送されることを発見!なんと Σ(・ω・ノ)ノ!?
次の土曜深夜、2015.12.13(日)午前1時15分~午前2時00分にNHK Eテレで「モーガン・フリーマン 時空を超えて『第2回 死後の世界はあるのか?』」が再放送されます。
この番組では、理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフによって提唱されている量子脳理論による死後の世界の科学的仮説を紹介しています。
前回のブログでも触れましたが、ロジャー・ペンローズは、本物の天才なんです。
イギリス生まれの数学者、宇宙物理学・理論物理学者で、スティーヴン・ホーキングとともにブラックホールの特異点定理を証明し、「事象の地平線」の存在を提唱したことで知られます。時空全体を複素数で記述し、量子論と相対論を統一的に扱う枠組みであるツイスター理論を創始したことでも知られます。
あまりに破格な天才であることは、次のサイトの茂木健一郎氏と竹内 薫氏の対談を読んでいただければ納得していただけると思います。二人して、彼がいかに超天才なのかを語っています。
ペンローズ『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』刊行記念対談】
茂木健一郎×竹内 薫/美しくもクレイジーな宇宙論
ところで、私は、人生には「3大ビックリ」というものがあると思っていて、一つ目は初めてセックスを知ったときのこと(え、うちの両親がそんな動物的なことをして私が生まれたの!?え、地球の人口の数だけセックスがなされたということ!?←大人になって読むと笑えますが)、二つ目は、相対性理論や量子力学を知ったときのこと(え、時間の流れは絶対ではないの!?、粒子は人が見るまでは未存在みたいな状態であるの!?)です。
一つ目のビックリはともかく、二つ目のビックリは知らないまま人生を終わる人もたくさんいると思います。
そもそも理工系の人でさえ、「ある粒子の運動量と位置を同時に正確に測定することは、不可能である」と言われ、ふーん、そうか、で通り過ごしてしまう人も多いと思います。
観測すると光が粒子を弾き飛ばしてしまうので観測できないという技術的な問題である、あるいは単なる確率論的なトレードオフの問題だと誤解されてしまいがちなのです。
そういう問題ではないのです。
「ある粒子の運動量と位置は確率的にしか決まっておらず、観測によって、初めて状態が決まる」ということが問題なのです。「決まっておらず」というところが重要です。「わかっておらず」ではないのです。
量子力学(コペンハーゲン解釈)において、粒子は様々な状態が「重なりあった状態」で存在している、とされています。粒子は人が見るまでは未存在みたいな状態ということです。そんな中途半端な存在があるわけないじゃないかと反論する人が「シュレーディンガーの猫」という思考実験で反論したきたのです。死んでいる猫と生きている猫の重ねあわせの状態なんて存在するわけがない、生きているか死んでいるかどっちかに決まっているじゃないか、と。
この問題点をはっきり理解するには、「二重スリット実験」をきちんと理解する必要があります。
「物質は粒子的な性質と波動的な性質をあわせ持つ」と聞いて、ふーん、そうか、で通り過ごしてしまう人も多いのですが、問題は、たったひとつの粒子を撃ち出したのに、スクリーンに干渉模様を作るという点です。そもそも一つの粒子がなぜ、同時に二つの並んだスリットをくぐり抜けるのか?一つの粒子だけでは干渉模様ができるはずがないのに、何とぶつかって本来の軌道を外れたのか、が謎なのです。
粒が広がって波になったという理解でいいんでしょ、という人もいます。しかし、そもそも撃ち出したのは粒ですし、スクリーンにぶつかったのも粒です。しかし、二つのスリットを同時にくぐり抜けられるのは波ですし、スクリーンに残された形も波のものです(わけわかんないですね)。そして、もう一つの謎は、波の性質によって干渉模様を作っていたはずが、それぞれのスリットに観測器をつけて通過したかどうかを観測すると、なぜか粒の性質しか示さなくなるということです(スクリーンに残る形も変わります)。
一つの粒が収束したり、拡散したりするということでしょ?---違います。
一つの粒が、ここに存在する状態と、あそこに存在する状態という状態が、同時に重ね合わさっているということです(無数に)。一つの粒が収束するのではなく、一つの粒のありうる無数の可能性が、観測されると一つに収束するのです。
つまり、観測されないかぎり、粒子はあらゆる数学的な可能性として存在していて(重なり合って存在していて)、観測されることによって状態が決まるという、不可思議な現象(観測問題)が科学的な実験で確認されてしまったのです。
これを受けて、コペンハーゲン解釈では、観測前に波動関数に従った広がりがあったことと、観測時点では一点に収束していること、収束の確率が確率解釈に依存することの三つの実験事実を合意事項として採用することとなり、これが量子力学の基盤となっているのです。
アインシュタインがこれに対し、「神はサイコロを振らない」と反対したことは有名です。いまでも、「シュレーディンガーの猫」問題は未解決だし、「観測」ってそもそも何という問題は残っているし、量子力学は実に奇妙な学問なのです。だけど、そこには目をつぶって、いろいろ実用的に使えるからそれはとりあえずおいておこう、ということになっているのです。
コペンハーゲン解釈でなければ、エヴェレットの多世界解釈です。
もっとブっとんでいます。
「シュレーディンガーの猫」問題で説明すると、生きている猫を観測した観測者と死んでいる猫を観測した観測者の重ね合わせ状態に分岐するという説明です。分岐したあとには生きている猫を観測した観測者、または死んでいる猫を観測した観測者の一方しか残らないため、矛盾は存在しない、という考え方だそうです。
これを下敷きにして、願望は実現すると主張するスピリチュアル方面の人は結構います。私がブログで書くと、関連したTV放送が次々見つかるというのも、そういうことで説明がつくのかも知れません(半分冗談です)。
さて、話を戻して、人生の「3大ビックリ」の最後の一つは、私がスピリチュアルの本をいろいろ読んで当たり前のことと確信していることに過ぎないのですが、死んでも意識がそのまま残るんだ、というビックリです。死後の世界を信じている人も、信じていない人も、皆、死んだらビックリするんだろうな、と常々考えています(ちなみに、とあるスピリチュアルの本によると、死んでも自分が幽霊のように透けて見えるわけではないので、自分がまだ生きていると勘違いする人は多いそうです。誰に話しかけても返事をしてもらえなくなったら、あれ、自分は死んでいるのかもと疑いましょう(笑)。そのことに最後に気付くというストーリーのシャラマンの映画もありましたね)。
というわけで、来週は、Eテレ「モーガン・フリーマン 時空を超えて『第2回 死後の世界はあるのか?』」の再放送です。天才中の天才、ロジャー・ペンローズが量子脳理論で描きだす死後の世界、楽しみです。
[補足]
あらゆる物質が重ね合わせの状態でいるのなら、猫だけではなく、人も重ね合わせの状態でいるのかも知れません。生まれてから、いや、死んでからも。誰かが「観測」するまで。
次の土曜深夜、2015.12.13(日)午前1時15分~午前2時00分にNHK Eテレで「モーガン・フリーマン 時空を超えて『第2回 死後の世界はあるのか?』」が再放送されます。
この番組では、理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフによって提唱されている量子脳理論による死後の世界の科学的仮説を紹介しています。
前回のブログでも触れましたが、ロジャー・ペンローズは、本物の天才なんです。
イギリス生まれの数学者、宇宙物理学・理論物理学者で、スティーヴン・ホーキングとともにブラックホールの特異点定理を証明し、「事象の地平線」の存在を提唱したことで知られます。時空全体を複素数で記述し、量子論と相対論を統一的に扱う枠組みであるツイスター理論を創始したことでも知られます。
あまりに破格な天才であることは、次のサイトの茂木健一郎氏と竹内 薫氏の対談を読んでいただければ納得していただけると思います。二人して、彼がいかに超天才なのかを語っています。
ペンローズ『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』刊行記念対談】
茂木健一郎×竹内 薫/美しくもクレイジーな宇宙論
ところで、私は、人生には「3大ビックリ」というものがあると思っていて、一つ目は初めてセックスを知ったときのこと(え、うちの両親がそんな動物的なことをして私が生まれたの!?え、地球の人口の数だけセックスがなされたということ!?←大人になって読むと笑えますが)、二つ目は、相対性理論や量子力学を知ったときのこと(え、時間の流れは絶対ではないの!?、粒子は人が見るまでは未存在みたいな状態であるの!?)です。
一つ目のビックリはともかく、二つ目のビックリは知らないまま人生を終わる人もたくさんいると思います。
そもそも理工系の人でさえ、「ある粒子の運動量と位置を同時に正確に測定することは、不可能である」と言われ、ふーん、そうか、で通り過ごしてしまう人も多いと思います。
観測すると光が粒子を弾き飛ばしてしまうので観測できないという技術的な問題である、あるいは単なる確率論的なトレードオフの問題だと誤解されてしまいがちなのです。
そういう問題ではないのです。
「ある粒子の運動量と位置は確率的にしか決まっておらず、観測によって、初めて状態が決まる」ということが問題なのです。「決まっておらず」というところが重要です。「わかっておらず」ではないのです。
量子力学(コペンハーゲン解釈)において、粒子は様々な状態が「重なりあった状態」で存在している、とされています。粒子は人が見るまでは未存在みたいな状態ということです。そんな中途半端な存在があるわけないじゃないかと反論する人が「シュレーディンガーの猫」という思考実験で反論したきたのです。死んでいる猫と生きている猫の重ねあわせの状態なんて存在するわけがない、生きているか死んでいるかどっちかに決まっているじゃないか、と。
この問題点をはっきり理解するには、「二重スリット実験」をきちんと理解する必要があります。
「物質は粒子的な性質と波動的な性質をあわせ持つ」と聞いて、ふーん、そうか、で通り過ごしてしまう人も多いのですが、問題は、たったひとつの粒子を撃ち出したのに、スクリーンに干渉模様を作るという点です。そもそも一つの粒子がなぜ、同時に二つの並んだスリットをくぐり抜けるのか?一つの粒子だけでは干渉模様ができるはずがないのに、何とぶつかって本来の軌道を外れたのか、が謎なのです。
粒が広がって波になったという理解でいいんでしょ、という人もいます。しかし、そもそも撃ち出したのは粒ですし、スクリーンにぶつかったのも粒です。しかし、二つのスリットを同時にくぐり抜けられるのは波ですし、スクリーンに残された形も波のものです(わけわかんないですね)。そして、もう一つの謎は、波の性質によって干渉模様を作っていたはずが、それぞれのスリットに観測器をつけて通過したかどうかを観測すると、なぜか粒の性質しか示さなくなるということです(スクリーンに残る形も変わります)。
一つの粒が収束したり、拡散したりするということでしょ?---違います。
一つの粒が、ここに存在する状態と、あそこに存在する状態という状態が、同時に重ね合わさっているということです(無数に)。一つの粒が収束するのではなく、一つの粒のありうる無数の可能性が、観測されると一つに収束するのです。
つまり、観測されないかぎり、粒子はあらゆる数学的な可能性として存在していて(重なり合って存在していて)、観測されることによって状態が決まるという、不可思議な現象(観測問題)が科学的な実験で確認されてしまったのです。
これを受けて、コペンハーゲン解釈では、観測前に波動関数に従った広がりがあったことと、観測時点では一点に収束していること、収束の確率が確率解釈に依存することの三つの実験事実を合意事項として採用することとなり、これが量子力学の基盤となっているのです。
アインシュタインがこれに対し、「神はサイコロを振らない」と反対したことは有名です。いまでも、「シュレーディンガーの猫」問題は未解決だし、「観測」ってそもそも何という問題は残っているし、量子力学は実に奇妙な学問なのです。だけど、そこには目をつぶって、いろいろ実用的に使えるからそれはとりあえずおいておこう、ということになっているのです。
コペンハーゲン解釈でなければ、エヴェレットの多世界解釈です。
もっとブっとんでいます。
「シュレーディンガーの猫」問題で説明すると、生きている猫を観測した観測者と死んでいる猫を観測した観測者の重ね合わせ状態に分岐するという説明です。分岐したあとには生きている猫を観測した観測者、または死んでいる猫を観測した観測者の一方しか残らないため、矛盾は存在しない、という考え方だそうです。
これを下敷きにして、願望は実現すると主張するスピリチュアル方面の人は結構います。私がブログで書くと、関連したTV放送が次々見つかるというのも、そういうことで説明がつくのかも知れません(半分冗談です)。
さて、話を戻して、人生の「3大ビックリ」の最後の一つは、私がスピリチュアルの本をいろいろ読んで当たり前のことと確信していることに過ぎないのですが、死んでも意識がそのまま残るんだ、というビックリです。死後の世界を信じている人も、信じていない人も、皆、死んだらビックリするんだろうな、と常々考えています(ちなみに、とあるスピリチュアルの本によると、死んでも自分が幽霊のように透けて見えるわけではないので、自分がまだ生きていると勘違いする人は多いそうです。誰に話しかけても返事をしてもらえなくなったら、あれ、自分は死んでいるのかもと疑いましょう(笑)。そのことに最後に気付くというストーリーのシャラマンの映画もありましたね)。
というわけで、来週は、Eテレ「モーガン・フリーマン 時空を超えて『第2回 死後の世界はあるのか?』」の再放送です。天才中の天才、ロジャー・ペンローズが量子脳理論で描きだす死後の世界、楽しみです。
[補足]
あらゆる物質が重ね合わせの状態でいるのなら、猫だけではなく、人も重ね合わせの状態でいるのかも知れません。生まれてから、いや、死んでからも。誰かが「観測」するまで。